地区コミュニティ協議会

川内地域 永利地区コミュニティ協議会

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永利地区の概要

第1節 地区の歩み

 永利地区コミニィティ協議会は,薩摩川内市の南東部に位置し,約2,720世帯,人口約6,360人の田園地区である。永利地区の主要部は,三方を山にかこまれた地形で,東から南側に広がる上床山山地(寺山・日笠山),西に冠岳山地(西岳・中岳・東岳)に囲まれ,永利町の中央部には平佐(山田)川,百次町の中央部には百次川が流れ,九州で有数の長流である川内川へと流れ込んでいる。宮崎町・永利町・百次町にかけて展開する平坦部地域は,権現原大地と呼ばれ,市内のシラス台地の中で最も広く,古くから畑作が盛んで多くの集落・住居ができた。

 永利地区は,昔は「永利名(ながりみよう)」とも呼んだ。「ながり」が「ながら」の転化とすれば「半(ながら)」で中央・真中・中間などに用いられる。永利名は,山田と百次の中間にあった。ちなみにこの地域は,大字山田の地であり,山田というのは単に山中の田地の意というのではなく,山中でも神稲を奉納した良田をいう場合が多く,当時の場合,元郷社久木原神社との関連も考えられる。

 永利地区の前進である永利村は,明治22年4月の市制町村制施行によって誕生した。当時,鹿児島県に,1市114村が誕生した村の一つである。人情・風俗・生活環境等がほとんど共通であり,背後地に他の町村を遮断するような,山岳・河川をもって村境界としていたため,甚だしく他町村との合併が困難を伴う状態におかれていたが,昭和31年4月に高江村と一緒に旧川内市に合併し現在に至る。

 生活については,江戸時代は自然を生かし,主に林業で生計を立てていたと考えられる。旧山田郷士であり,代々行司や竹木見回り役を勤めた家柄である永利町の肱岡家には,大量の山関係の貴重な史料が現在も残されている。江戸時代後期に,水稲耕作の灌漑用水の蓄えとして,山間堰止池の形式で,高牧溜池は,薩摩藩の藩営により開発され,明治10年(1877年)の西南の役のときに西郷隆盛がこの溜池を抵当にして借金をして行ったという言い伝えが残されております。百次町の大河内溜池は,宍野氏の私営(民営)開発により新田開発が行われ,原野や畑地が広く水田化された。近年まで,田・畑での農業が盛んな土地柄であった。

永利地区の概要

 

永利地区コミュニティ協議会連絡先

コミュニティセンター

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